☆☆☆ 少女アリス 06


第4話 花園 (2)

 ☆★ 薔薇の色 ★☆

「ほら、行きましょう、アリス!」
 そのまま、アリスを引っ張って一直線に走り出した。
「あっ・・・!!」
 アリスは、その勢いに、ただ前へと進むだけだった・・・。
 辺り一面をおびただしいほどの花が、特に真紅に染まった赤い薔薇が、咲き乱れていた。
 濃い緑の中、息が詰まりそうな芳香が襲ってくる。
 アリスはむせて、手で口を覆った。
 それを感動したと勘違いした女王は、
「綺麗ねえ・・・アリス。本当に・・・。
 わたし、こんなに綺麗だなんて、ちっとも知らなかったわ。これも、一緒に来てくれた、アリスのおかげよ。
 ありがとう、アリス。とっても嬉しいわっ!!」
 頬を朱に染めて喜ぶ女王。そのままアリスに抱きついた。
 それを受け止めることで、よりいっそう咳き込んだアリスは、己の手が、赤く染まっているのを見た。
「ああ・・・血が・・・」
 アリスは溜息を吐くように言葉を吐いた。
 べったりと手を染めている鮮血。どうやらアリスは、吐血してしまったようだ。
「血? どこに?」
 しかし、無邪気に聞いてくる女王に見せた手には、シミひとつない、白く美しいだけの手・・・。
 確かに吐血したはずだが・・・?
「もう、アリスったら! きっと薔薇の色が目に移ったんだわ。すごく、赤いからねぇ・・・」
 そうであろうか、信じられない。
 女王の言葉は確かに一理あることだが、アリスはあの時、確かに血の・・・液体の感触を感じていた。
 だが、手にはシミひとつないのだ・・・。
「ああ、そうだわ。アリスにお礼として、ここの薔薇をプレゼントするわ。
 待ってて、今、綺麗なのを取ってくるから」
 軽やかに駆けて行った女王を見て、アリスは、女王が何の躊躇もなく薔薇の花を手折ろうとするのに気づいた。
 もしかしたら、女王は薔薇に棘があることを知らないのかもしれない・・・。
 咄嗟に叫んでいた。
「いけません!!」
 女王は一瞬、動きを止めると、不思議そうにアリスの方を向いた。
「なぁに? どうしたの、アリス。突然、大きな声なんか出して・・・?」
 くすくす小さな笑いが、咽喉を震わせていた。
「女王様、薔薇に触るのは、止めてください!!」
「大丈夫、すぐに終わるんだから。綺麗なのをアリスのあげたいの」
「違っ・・・!!」
 女王は、その白い手で棘だらけであるだろう薔薇の茎に手を伸ばした。
「駄目っ!! 手がっ!!」
 アリスの叫びも空しく女王は、しっかりと薔薇の茎を掴むと、それをプチリ、と折った。
「ああ・・・」
 アリスは思わず、痛がる女王を想像した。
「どうしたの? アリス」
 しかし、予想に反して女王は平気な顔をして、もうひとつ、大輪の薔薇の花を手折った後、振り向きながら言った。とても、不思議そうに笑いながら。
「どうしたの? アリス。さっきから大きな声を出して。何かあったの?」
 薄っぺらい笑顔で、不思議そうにそう聞いてくる。
「棘は・・・棘は刺さらなかったのですか・・・? お怪我は・・・?」
 戸惑い、焦ってアリスが聞くと、女王は軽やかに笑い続け、
「何のことを言っているの、アリス。いったい、何のことなのか分からないわ。
 薔薇に棘なんて、あるの? 初めて聞いたわ、そんなこと。お部屋に飾ってあるのも、ここのにも、棘などありはし
いわよ?」
「そんなことっ」
 咄嗟にアリスは確かめようと、近くの薔薇の花に手を伸ばした。
「っ・・・」
 微かにかすっただけのアリスの白い指に、一筋の切り傷が出来ていた。そこから薔薇にも劣らない、真紅の血が、滴となって現れた。薔薇には仰々しいまでに、棘で囲まれていたのだ。
「アリスっ!! 大丈夫っ!?」
 心配そうにアリスの顔を覗く女王が、傷を見て驚きの声を上げた。
「まあっ、どうして!? どうしたの、アリス、それっ!? どうして、切れたのかしら!?
 ねえ、痛い? アリス、痛い・・・?」
 驚きが覚めると、次は不安げに訊いてくる。
「ええ・・・まあ、少し・・・」
 ただの傷とは思えないような、鋭い痛み。血は一滴しか出ず、逆に傷の周りから血の気が引いたように萎れていく。どんどん痛みが激しくなっていくようにさえ思えてくる・・・でも、何故・・・?
 アリスが痛みに耐えていると、何を思ったか、女王がいきなりアリスの指をくわえた。
「なっ!? 女王様・・・!?」
 仰天するアリスに、女王はもごもごと口の中で一言、こう言った。
「治してあげる」
 ただでさえ、痛くて堪らなかった傷が、今度は熱を持ち始めたように、熱くなる。
「うっ・・・うう・・・・・・はっ・・・ぁぁ・・・」
 堪えられないほどになってくる。
 その熱さが。その痛みが。
 女王の舌が、わざと傷口を悪化させるのでは、と思うほど必要以上に傷口に触れる。
 熱い・・・・・・!! 痛い・・・・・・っ!!
 極度の興奮状態に達したアリスは、本能のままに女王を突き飛ばそうとした。
 女王は、口を離し、静かにアリスを見た。
「もう大丈夫よ、アリス。・・・それとも。、まだ痛い?」
 赤く色付いた唇が、笑みを形作った。
 ―――まるで、アリスの血を塗り付けたような、冴え冴えとした、赤い、色。
「ああっ・・・」
 それを見た瞬間、アリスは脱力と嫌悪と安堵とを、一度に感じ、そして混乱して座り込んだ。



 ―――――。

 ―――――。

 〜〜〜〜〜。



 アリスが目覚めると、そこは、誰かの寝室だった。
 誰か、否、女王の・・・。
 虚ろな頭を振って、周りを見ると、大人と子供の姿にぶれる女王の疲れた横顔が目に入った。
「・・・・・・」
 しかし、かける言葉も見つからず、アリスは大人しく寝た振りでもすることにした。
 チクタク・チクタク・
 どこからか聞こえてくる時計の秒針が、アリスを眠気から遠ざけていた。
 女王はさっきから微動だにしない。
 よく見ると、こちらも虚ろな眼差しで、どこか、どこまでも遠くを見ているようだ。
 アリスは、何も話し掛けないことにして、眠れなくても目を閉じることにした。
 チクタク・チクタク・・・チクタク・チクタク・・・
 静かな室内に、普段、意識することすら稀なくらいの大きさの音が堂々と主張している。
 もう時間だ、と。
 一人無意識に焦らされているようで、落ち着かない。
 だが、女王はまだ、気づかない。
 どこか遠くを見ている。
 どこか、ここではないどこかへと、その意識を飛ばしている様子。
 ただ、虚ろに空中を眺めていた。
 アリスはそっと息を押し殺すようにしてベッドに乗っている。
 身じろぎさえもせず、シーツの下の手足が少しむず痒かった。
 チクタク・チクタクとしつこい秒針と心音を重ねると、少しも不快でないのに気づいた。
 今、この部屋は時間が止まっているのだ。女王の。彼女の生きている時間が。
 だから、アリスは、その不安定な存在である女王が、一時でも心の平静を取り戻し、子どもであれ、大人であれ時を取り戻し、アリスを求め呼びに来るまで『眠っている』。下手に動くと、女王は壊れてしまう。
 アリスは女王が近づいてくるまで、彼女の時が動き出すその時まで、そのままベッドの上で待っていることにしただ・・・。



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